黄孝春画像

誰よりも青森りんごの未来を見つめている男がいる。
運命に導かれるように異国の地、弘前へと渡った男は
いつしかりんごに魅せられ、なくてはならない存在となった。
りんごに選ばれし者の、この地での挑戦はまだ終わらない。

File#④ 黄 孝春(こう こうしゅん)(HUANG Xiaochun)

 中華人民共和国湖北省。りんご栽培もしていない、青森りんごとは縁遠い異国の地。ここで生まれ育ち、りんごとは全く無縁だった青年が、青森県の国立大学法人弘前大学人文社会科学部教授として今、青森りんごに携わっています。黄 孝春(こう こうしゅん)、現在55歳です。
 黄は1962年10月7日、中華人民共和国湖北省の小さな町で生まれました。生まれ育った町は中国の南方に位置しているみかんの産地です。りんご栽培はしておらず、幼少期はりんごを食べたことはおろか、見たこともありませんでした。黄が初めてりんごを食べたのはなんと、大学生になってからです。味は美味しいと感じたものの、この時はまだりんごに対して興味がわいたわけではありません。ましてやこれから先、日本でりんごについての研究をすることになるとは想像もしていませんでした。

留 学

 黄は高校を卒業すると、湖北省の省都で中心都市の武漢市にある武漢大学に入学しました。入学した当時は、他国への留学を志望する学生が多く、黄も留学を望む一人でした。志望先に選んだのはフランスです。大学時代の黄はフランス革命のきっかけともなった啓蒙思想に興味を持っており、哲学などを勉強するためにフランス留学を希望していました。黄は政府からの派遣留学となる試験を受け見事合格し、留学資金免除となりました。あとは留学を待つのみの黄は、フランス語の勉強をするために外国語大学へ行く手続きをし、準備をしていましたが、どういうわけか来るはずの連絡がなかなか来ません。他の学生は留学準備が着々と進行する中、自分の留学の話はどうなったのだろうと不安に思っていた矢先に連絡が入り、なんと「留学先は日本になった」というのです。黄はとても驚きました。ヨーロッパ、フランス留学を希望して試験を受けたのに日本に行くことになるなんて思ってもみなかったのです。その時、なぜ日本になったのかをたずねると、「日本はこれから世界的に重要な国になってくる。政府としては日本に学生を派遣したい」という返答でした。黄は田舎出身で家の財力もなく私費で留学はできない。希望とは異なるが留学したい気持ちが強く、世界的に重要になってくる日本にも興味が湧いてきたこともあり、日本への留学を決めたといいます。同時に、一から日本語の勉強をしなければならないという重圧も感じていました。

 日本に留学が決まった黄は、まず中国東北地方の大連市にある大連外国語大学で日本語の勉強をすることになります。2ヶ月後に外国語大学へ行くことが決まった黄は、その前に少しでも日本語の勉強をしておこうと考え、日本語学科初級クラスの講義を傍聴させてもらうことにしました。そこで2ヶ月間日本語の勉強をしたのですが、この講義を担当していた教員が、後に夫人となる女性(以下、黄夫人)でした。その後大連外国語大学で半年間日本語の勉強をして1984年10月に来日、留学先の大学は京都大学でした。ちょうどこの時黄夫人も、黄とは別の研修プログラム(日本語教師を対象とした、日本語と日本文化を学ぶ研修プログラム)で来日し、なんと、研修先も同じく京都大学でした。黄は学生として留学、黄夫人は教員を対象とした研修で立場の違う状況でしたが、お互いに京都を希望したわけでもなく、偶然同じ時期に来日することになり、同じく京都に滞在することになったのです。希望とは異なる留学先、黄夫人との出会い、そして偶然の同時期の来日と、二人の間には運命の巡り合わせがあったのではないでしょうか。慣れない日本での生活を支えたのは、京都府にある日中友好協会という大きな組織でした。そこで日本での親代わりとなる夫婦と知り合い、二人はいろいろとお世話になっていたといいます。その夫婦は二人が恋人同士であることを聞くと、結婚を勧め結婚式もしてあげると提案してきました。とんとん拍子に結婚の話が進み、来日してから1年もたたずに二人は結婚したのです。この時黄夫人は1年で中国に帰ることになっていましたが、結婚したことで黄と共に日本に留まり、日本で勉強を続けていました。黄も日本語の勉強をしながら、日本の文化や歴史、経済史などを学び、必死に勉強をしたそうです。1989年11月には長男が誕生し、黄は忙しいながらも充実した留学生活を送っていました。

 京都大学で理論経済学と経済史学を学び、博士号を取得した黄は1991年3月で留学を終え中国に帰国することになります。政府からの派遣で留学し奨学金の給付が期間限定だったため、博士号を取得して帰国することになっていたのです。しかしこの時、中国国内では天安門事件の直後で政治経済が不安定な時期にあり、帰国するかしないかの判断を悩んでいました。決めかねた黄は、大学院の恩師に相談することにしました。相談すると恩師も黄を心配してくれていました。「研究する環境や条件を考えると今の中国はあまり良くない。もう少し日本にいた方が良い環境で過ごせるのではないか」と助言があったそうです。黄自身も日本でキャリアを積みたいという気持ちもあり、「それじゃあ日本に残ろう。とりあえず2、3年くらい日本で仕事をしてキャリアを積み、それから帰国しよう」と思ったといいます。

 

弘前へ

 日本に留まることを決意した黄は、就職先を求めて恩師に再度相談をしました。恩師から3ヶ所の大学を就職先として紹介してもらい、その中に弘前大学がありました。これが「弘前」に触れた瞬間です。この時黄は「弘前」のことを「ヒロマエ」と読み、場所もどこにあるのかわかりませんでした。黄は「弘前という漢字の雰囲気だけで、古そうな街並みの東京近辺だろうと思っていましたよ」と当時を振り返り、笑いました。早速黄は恩師から紹介された3ヶ所に書類を準備して送りました。しばらくして、書類を送った3ヶ所のうち弘前大学から電話がありました。この時、はじめて弘前市が青森県であることを知ったのです。ずいぶん遠く、寒い地域だと思いましたが、仕事があるならいいかという思いから面接を受けることにし、見事採用。黄は弘前大学で仕事をすることになりました。これが弘前市に来ることになったきっかけです。その後他の2ヶ所からも連絡はありましたが、弘前大学での採用が決まってからだいぶ後のことで、黄は弘前に来るという運命だったのかもしれません。

 1991年4月、黄は弘前へとやってきました。「どこを見渡しても一面りんご畑が広がる風景にとても驚いた」といい、黄が青森りんごに触れた瞬間でもありました。
 そして、黄が弘前へとやってきたこの年は、青森のりんご産業に大打撃を与えたあの出来事があった年でもありました。1991年9月28日、後に「りんご台風」と呼ばれる大型の台風19号が青森県津軽地方に上陸した年です。この時の様子を今でも鮮明に覚えていると黄が語ってくれました。「ものすごい風に自分の部屋の窓ガラスも割れ、外に出てみると大木が倒れ、りんごの袋が空を舞っている状況に目を疑いました。本当に怖かったですね」と。この台風が襲う10日程前、まだ京都にいた夫人と長男が弘前に遊びに来ていて、サイクリングでりんご畑の前を通り、真っ赤に実ったりんごを見て「きれいだね」と話していた矢先のことだったのです。台風が過ぎ去ったあと、黄はサイクリングの際に見たりんご畑が心配ですぐさま見に行き、その時のことをこう振り返りました。「ほとんどのりんごが落ちている光景を見て、息をのみこんだまま言葉が出ませんでした。本当にショックでしたね」
 この「りんご台風」はりんごに関わりのなかった黄の心に、とても強く印象に残った出来事でした。弘前市内のりんご農家の小学生がりんご台風のことを書いた『りんごの涙』という文集にも心を打たれたそうです。
 この出来事がひとつのきっかけとなり、とりあえず2、3年ほど日本で仕事をしたら帰国するつもりだった黄でしたが、しばらく仕事をしているうちに「このまま日本に残ってもいいような、帰国しなくてもいいような気がする」という思いがあり、黄はこのまま日本で仕事を続けることを決めたといいます。1994年、京都に住んでいた家族(夫人と長男)を弘前市に呼び、家族共々弘前市で新たな生活をスタートさせたのです。その後長女も誕生し、黄は弘前に根を下ろすこととなりました。

(左)弘前大学の研究室にて
(右)家族4人で

りんご産業調査のはじまり

 2001年、社団法人(現在は公益財団法人)青森県りんご協会(※りんご産業の発展と農村民主化、生産者への奉仕を目的とした組織)から弘前大学へ研究資金の寄付がありました。この寄付を受けた弘前大学は、全学部対象に研究テーマの公募をしました。当時黄はりんごに関わったことがなかったため、応募をする気はありませんでしたが、りんごと聞くとやはりあの出来事、「りんご台風」を思い出します。すると、同大学農学生命科学部の神田教授が「ぜひグループとして黄先生の名前で研究テーマに応募してくれませんか。外国のりんご産業について調査をしたいので、海外旅行にも行けますよ」と黄に応募するよう声をかけてきたのです。黄は「この時は応募してもいいかなと思いましたね。旅行にもいけると言ってもらいましたし」と笑います。そして、多数の応募の中から何点かの研究テーマが採用され、その中の一つに黄が応募した研究テーマ『世界のりんご事情』も含まれていました。黄はこの時はじめてりんご産業に関わりを持つことになったのです。グループメンバーは農業経営学や経済政策のそれぞれ専門分野の先生方で結成されましたが、その中でも応募を勧めてきた農学生命科学部の神田健策教授、人文学部のカーペンター教授とはその後も様々な調査や研究を一緒に行うこととなり、黄にとっては欠かせない存在となります。

 『世界のりんご事情』と銘打ち調査した初めての国は、オーストラリアとニュージーランドでした。オーストラリアのタスマニア島(ヒューオン・バレー)と、ニュージーランドのホークス・ベイ地域に行き、それぞれのりんご産業について、りんご生産者、出荷業者、輸出業者、加工業者、研究施設などを調査・見学をしました。この当時のことを黄は、「この時は調査と言っても知識が全くない状態でしたから、説明を聞いていてもあまり意味がわからなくて、興味本位で拝聴した程度でしたね。その中に現在でも私の研究テーマになっている「クラブ制」の話もありましたが、この「クラブ制」というのが、のちの私の研究テーマの一つになるとは当時は夢にも思ってなかったですよ」また、「興味本位で聞いていた中でも「クラブ制」の話はどこか好奇心をくすぐりましたね」といいます。
 その後も黄は、アメリカのミシガン州、中国の陝西省、山東省などにも行き、国際市場の変化や産地の生産、マーケティング、また国レベルの政治的戦略などの調査を行いました。
 大学に戻り報告書をまとめながら黄は「半分観光気分で行ったけれど、りんごの「クラブ制」の話は興味深く、このまま報告書を書いて終わりにするのはもったいない、継続して調査を進めていきたい」と考えました。この初めてのりんご産業調査が黄の好奇心をくすぐり、この先世界各国のクラブ制について調査をすることになっていきます。

ピンクレディー

さらなる調査

 継続して調査・研究を続けるためにはさらに費用がかかります。そこで黄は文部省(現文部科学省)の科学研究費助成事業(科研費)に申請することにし、次の調査・研究テーマを中国のりんご産業にしました。自身が中国出身ということもあり、日本からも近く、りんごの生産量も年々増加していることが理由です。科研費の審査・交付はとても厳しく、申請してもなかなか通ることがないといわれているそうですが、黄グループが申請した研究テーマは無事審査を通り、科研費の交付を受けることができました。おかげで黄をはじめグループのメンバーは2007年から中国に何度か足を運び、中国のりんご産業の人たちとのつながりを持つことができたといいます。当時、中国のりんご生産量は日本の30倍にもなり、黄だけでなく日本のりんご関係者は中国に高い関心を寄せていました。この研究は日本と中国におけるりんご産業の棲み分け戦略に関する基礎的調査プロジェクトで、2年間の調査期間がもうけられました。初年度は主に中国のりんご産地を調査、次年度は大連と青島の両都市でりんごの消費状況について視察しました。それとは別に青森産りんごの中国での販売状況を把握するために青島でアンケート調査を実施。また中国のりんご生産と消費事情に関する情報交換を目的にシンポジウムを開催するなどと、日本と中国のりんご産業の現状と課題を品種開発、栽培、貯蔵、加工、流通、政策など様々な視点から比較し、交流を図ってきました。この中国での調査・研究が終わった時の報告会で、当時の青森県りんご果樹課課長の深澤守氏と出会います。深澤氏は「青森ではこんなに品質の良いりんごがあるのだから、もっと色々な国に輸出するべきだと思う」と話し、黄もその話に共感していました。
 しばらくして深澤氏から黄のもとに連絡がありました。青森県と輸出関係団体とで「青森県農林水産物輸出促進協議会」を立ち上げたので、その会長を黄にやってほしいというのです。農産物の輸出拡大を目指す目的で県と一緒に立ち上げた組織です。輸出関係にも興味を持ち始めていた黄は快く引き受け、りんご産業だけではなく輸出関係にも関わることとなりました。同時に2009年からは、青森県のりんご輸出市場で最大の市場である台湾の調査・研究をすることになります。以前からのグループメンバーであるカーペンター教授が研究代表者として科研費を申請し、厳しい審査をまたもやくぐり抜け、黄もグループメンバーとしてカーペンター教授や神田教授とともに調査を進めていくことになりました。

(左)2007年9月中国洛川、国際リンゴ技術フォーラムで発表
(右)2010年研究会での発表(神田教授、カーペンター教授と共に)

 台湾での調査は、黄を含めたグループメンバーが大手商社、産地出荷業者、台湾輸入業者それぞれに聞き取り調査等を行い、高品質高価格の青森産りんごがブランド商品として台湾市場に定着していくプロセスを明らかにすることを目的として行われました。2001年台湾のWTO(世界貿易機関)加盟に伴い、日本産りんごの台湾輸出が自由化し、輸出数量が急増してきました。それ以前は輸出が規制されていたため輸出数量が限られ、輸出品種を「世界一」「陸奥」のようなギフト用高級りんごに特定してきたことで、青森産りんごのブランドイメージ形成に貢献してきた経緯がありました。こういった以前のブランド効果を活かしながら、青森県内の産地移出業者は台湾のWTO加盟以降も順調に輸出量を伸ばしてきました。また、輸出品種をギフト用高級りんごだけでなく、「ふじ」などの生産量の多いりんごにシフトするとともに、貿易商社と輸入商社との連携によって輸出先での販路拡大を進めたことが更なる輸出量の増大に結びついてきました。
 こうして、黄を含めたグループメンバーも台湾輸出市場の一端を担ってきたのです。りんごの知識がほとんどなかった黄が調査・研究を進めているうちに、いつしか青森県のりんご産業には欠かせない存在となっていました。

「クラブ制」について

 りんご産業について深く関わっていくうちに、黄が初めて調査に訪れた国、オーストラリアで聞いた「クラブ制」に対しての興味が大きくなっていました。「クラブ制」とは生産者、流通業者、さらには苗木生産業者が連携し、育成者権と商標権を利用した契約を結ぶことで生産・流通をコントロールします。それによって得られた利益の一部をマーケティングやブランド防衛に用いることで高い付加価値の維持を図るシステムのことです。黄はこれからの青森県のりんご産業には、この「クラブ制」が必要になってくるのではと思い始めていました。この「クラブ制」について深澤氏にも話したところ、調査を後押しされました。これで本腰を入れ、「クラブ制」についての調査・研究を行おうと決心し、調査・研究を行うための費用も一般社団法人青森県農業経営研究協会の農業経営研究支援事業に申請して確保しました。黄は早速調査をしようと意気込みますが、いざ始めようとしても、何からどのように調査を進めていけばいいか悩んでいました。
 そんなある日、黄のもとに1本の電話がかかってきました。電話の相手は中国のビール産業を調査している、アメリカのコンサルティング会社の社長さんからで、以前黄が行った中国のビール産業についての調査報告書を読み、ぜひ会って話がしたいとの事でした。それから実際に会い、意見交換をしました。話題が黄の研究内容であるりんごの調査のことに及ぶと、先方が農業中心のコンサルティング会社とわかり、もしかしたら一緒に仕事ができるかもしれないとの話になったそうです。それから1ヶ月もたたずコンサルティング会社から連絡がありました。内容は「オーストラリアの品種、ピンクレディーの調査をしているので、よかったら一緒に参加しませんか」とのことでした。黄は「農業中心のコンサルティング会社とは聞いていたが、まさかこれほどまで自分のテーマと一緒の話をもらうとは思っていませんでした。これは天から降ってきたうれしいお土産だ」と喜び、躊躇することなく「喜んで参加します」と返事をしました。実際に一緒に調査をすると、その会社の世界的なネットワークで情報もたくさん入り、驚くほどに調査や研究がスムーズに進みました。

(左)クラブ制りんごの一覧パネル
(右)Fruit Logistica(メッセベルリン、2013年)Kanzi会場

 調査内容は、一般的に「クラブ制」と呼ばれている海外の農林水産物ブランド化の先進的な事例として、オーストラリアの「ピンクレディー」のシステムについて調査分析をし、生産と流通をコントロールする仕組みの解明と、日本でも実際に導入できるかどうかを研究することでした。「ピンクレディー」システムでは育成者権と商標権にそれぞれロイヤリティーを徴収しており、それによって得られた収入は新品種の開発や育成者権の保護、また組織の運営費や消費者向けのプロモーション費用、商標権の保護などにも活用され、ブランドの発展と保護に役立てているといいます。「ピンクレディー」システムは高付加価値を持続的に維持するために、得られた利益の中からブランドの維持に必要な資金を確保しつつ、残りを育成者権の所有者や生産者等の間で分配していく仕組みを作り上げた成功例であり、日本の農林水産物ブランドを作り上げていくために参考になる事例ではないかと黄は考えました。一方で参考とするには気をつけなければならない点などもこの調査で明らかとなったといいます。その結果、農林水産省から高い評価を受け、通常は1年で調査を終えるもので継続することはなかなかないのですが、この調査は継続するべきとのことで、もう1年継続することになったのです。

 2年目の調査・研究内容は、日本でも応用が可能かどうかに関して調査し、なぜ日本で「クラブ制」導入の検討が必要であるかも再度考察しました。さまざまな「クラブ制」の成功事例について学び、現時点で考えられる課題等を提示しました。この時「大紅栄」を例にした「クラブ制」導入に関する考察もしています。「大紅栄」は契約した農家だけが栽培できるという、専用利用権が設定されたりんご6品種のうちのひとつです。育成者と弘前市の卸売市場間で専用利用権を設定し、卸売市場は生産農家と契約を結び、契約した農家のみに苗木を販売しています。契約農家は、生産した「大紅栄」はこの卸売市場を通して販売しなければならず、その際に市場手数料・育成者へのロイヤリティー・販売促進費及び研究開発費が徴収される仕組みとなっています。いわば「クラブ制」とも言えますが、卸売市場で競売にかけられた「大紅栄」はその後どのような経路で消費者まで届くかは全く関与していません。品種育成者権を活用していますが、商標権にまで視野に入れ経営を行っているのではないと考えます。この制度が発足した当時は「クラブ制」という概念が周知されておらず、このような形態に落ち着いたのではないかと思われます。逆に言うと商標権までも視野に入れ整備することにより、本格的な「クラブ制」りんごに発展する可能性があり、チャレンジの価値は十分にあると黄は思ったといいます。また、黄自身も「大紅栄」が好きでよく食べていて、もっと世界中で認知される品種になってほしいと願っているのだそうです。
 この「クラブ制」についての2年間の調査を終え、調査結果をまとめた黄は、弘前で報告会を行うことにしました。この報告会はごく限られた人にしか連絡はせず内輪的に行うつもりでしたが、会場にはたくさんの人が集まり大盛況となりました。黄はこの状況を見て、「大々的な告知もしていないのに口コミでこれだけ集まるということは、「クラブ制」への興味が大きくこれから重要になってくる」と確信したのです。

アメリカミシガン州カラマズーにて

 「クラブ制」に関して周囲の関心度が高いことがわかり、黄グループはさらに2つの研究テーマで科研費を申請。これもまた審査を通り調査を行いました。ひとつは神田教授が研究代表者として「会員制(クラブシステム)による農産物の生産販売に関する基礎的研究」という課題で行いました。「クラブ制」の実際の運用を調べるためにオーストラリア、ニュージーランド、イタリア、フランス、アメリカ、チリ、中国などの実態を調査し、日本で今後品種経営の時代が到来することが予測される中での対策を検討しました。もうひとつはカーペンター教授が研究代表者として「『ピンクレディー』システムに関する総合的調査研究」という課題で行いました。この研究でもオーストラリアをはじめ世界各国のクラブ制の実態調査に加え、各国の取り組みや戦略を調査しました。
 いずれの調査でも世界各国のクラブ制の実態調査をしたことで、日本で運用する際の課題や、今後品種経営という考え方が重要だということを改めて感じた調査となったのです。

(左)2010年調査時アメリカワシントン州にて(黄撮影)左端が神田教授、右から2人目がカーペンター教授
(右)2012年調査時フランスアンジェ市にて(黄撮影)苗木についての説明を受けるカーペンター教授

現在の取り組み

 現在黄は弘前大学で、大学全体で取り組む4つの戦略プログラムのうち、「戦略1事業」のアグリ・ライフ・グリーン分野における地域の特性・資源を活かしたイノベーション創出・人材育成事業に携わっています。農学生命科学部が中心となっていますが、その中核事業課題の一つ「県産りんごの輸出拡大の可能性とその課題」について人文社会科学部の関わりとしてプランニングしています。概要としては「県産りんごは農産物輸出のチャンピオンとされるが、全生産量に占める輸出量の比率は数%にとどまっている。それは輸出産業化を実現しているニュージーランドの場合とは桁が違う。県産りんごの輸出を国内市場の調整型から輸出志向型にシフトさせていくにはどのような課題があるのか、またそれを解決していくにはどのような方策が必要なのか、品種開発から、生産、流通、輸出までの諸段階を洗い出し、検討したうえで地方自治体に提言していく。とりあえず、今後の輸出拡大に必要とされる GAP(農業生産工程規範)の導入について実践的に取り組み、そこで蓄積されたノウハウをりんご農家に提供し、普及させたい」というもので、6年計画のうち2年が経過しました。黄はこのプロジェクトが終了したら、りんごの研究はひとまず終わるのではないかと感じています。「弘前に来た当初はりんごの知識が全くなく、りんご産業を調査することが決まってからも観光気分で海外のりんご産業の調査について行ったりしてね、本当は青森のりんご産地をいろいろ見て研究してから行った方が良いとは思うけれど、当時はそんなこと全然考えなかった。でもそれが逆にすごく面白いと感じた要因だったのかもしれませんね。りんごとの関わりがなかったら人生の楽しみもずいぶん少なかったと思います。今が非常に充実しています。人生何が転機になるかわかりませんね」と当時を振り返ります。

(左)ゼミの生徒と行った台湾視察での一コマ
(右)第一回世界りんご大会(中国)で講演中の黄(2016年10月14日)

青森りんごの将来を考察

 青森県におけるりんご産業は、現在様々な課題が山積みです。この課題にどう関わっていくべきか。黄は「これまでの研究結果を、実践的に活かしていかなければと思っています。そもそも青森県は日本におけるりんごの主産地です。この主産地としての地位を維持することが非常に大事なことですね」と語ります。主産地であるからこそ、海外からの大量ロッド数のオーダーに対応でき、安定した輸出ができています。主産地としての優位性があるからこそできることです。一定量の生産規模や生産量を維持しなければ、主産地としての地位を維持できなくなります。現在、高齢化問題や後継者不足問題などにより、生産量を維持するどころか減っているというのが現状です。
 黄は「一つの問題解決方法として『高密植栽培』を推奨したいですね」といいます。『高密植栽培』とは、これまでの栽培方法とは異なる概念のもので、早期多収、均一生産、作業効率向上を実現し、生産者の所得向上と労力削減を目的とする栽培方法です。これにより高齢者でも作業しやすく、新規参入者でも一定の知識ですぐにりんごを栽培できるといったメリットが生まれます。また、『高密植栽培』は現在の世界基準の栽培方法でもあります。しかし世界基準の栽培方法でありながら日本での普及率は低いのが現状で、課題も多くありますが、世界のりんご産地を見てきた黄は本質をしっかりと把握し、どこに問題や課題があるのかを投げかけています。「反収が増加する栽培方法ですので、面積が減少傾向にある青森県では生産量の一定の水準をキープするために『高密植栽培』にも目を向け、生産量のキープを図っていく必要があるのではないでしょうか」と語るように、青森県が主産地として維持し続けてほしいという思いが根底にあります。

 また、もう一つの問題解決方法として、「これまでの輸出に対する概念を見直すことも考える必要がある」と言います。これは、現在の日本国内の消費が低迷していることが要因です。そもそも青森県が輸出に力を入れ始めたのは、国内マーケットが厳しいので海外マーケットに頼ろうというのが一つの理由として挙げられます。この考えが輸出に対する概念として定着しているのが現状ですが、黄は、「国内マーケットを調整するような輸出ではなく、はじめから海外へ目を向けた生産や品種改良などが必要と考えます。国内で売れなくなったから海外でということではなく、海外も常に一つの市場として考えていくような体制づくりがこれからの時代に重要ではないでしょうか」といいます。「海外との競争でも生き残れるような品種開発も必要で、そのような品種ができた時にはクラブ制の導入も重要になってくるのではないでしょうか。これまでは品種経営という考え方はありませんでしたが、新しくできた品種をどうやって経営していくか、それをこれからみんなで考えて実行していきたいですね」と語ってくれました。ただ、「すべて外国のやり方の真似ではなく、日本そして青森の事情に合ったやり方で進めていくべきです」ともいいます。それらを実現していくためには、「世界農業遺産やグローバルGAPの認証取得なども考える必要がある」といい、「その他にも課題は山積みですが、どのような方向に進んでいくべきか、大学人としての考えを示し、地域とのかかわりを深めていきたいと考えています」と語ってくれました。

(左)2016年にグローバルGAP認証取得した五所川原農林高校にて
(右)2016年11月11日放送、NHK「おらほのりんごをオリンピックへ」の撮影現場にて

家族と仲間

 黄は学生時代からジョギングなど体を動かすことが好きで、現在も山登りを趣味としています。岩木山や八甲田、梵珠山など日帰りで行くことが多く、自然の中でリフレッシュすることが楽しいといいます。また温泉もよく行くそうで、「中国にも温泉はありますが入ったことはないですね。日本に来てから温泉に入るようになりました。温泉が一番リフレッシュできますね」と笑顔で語ってくれました。
 調査等で海外へ行くことの多い黄ですが、家族に対しては申し訳なく思っていることもありました。「家族旅行が少なかったことが申し訳なく思いますね。それと、妻も非常勤ですが仕事をしていましたので、子育てとの両立は大変だったと思います。妻が全部やってくれたおかげで、私は安心して調査に出かけることができましたので、妻には本当に感謝していますね」と感慨深げに話してくれました。黄夫人の支えがあり、これまで調査・研究を続けることができ、青森県のりんご産業を支えてきたといってもいいのかもしれません。
 そして、グループメンバーとしていつも一緒に調査・研究を行っていた神田教授とカーペンター教授とは、公私ともに付き合いがあったそうです。特にカーペンター教授とは家族ぐるみの交流もあり、「調査等も含めると彼(カーペンター教授)は奥様よりも私と一緒にいる時間の方が長いかもしれないですよ」と笑いながら語りました。カーペンター教授の定年祝賀パーティーでの写真に、カーペンター教授の奥様よりも神田教授と黄が写っているものが多く、それだけ信頼し合っている仲間だと言えます。そういう仲間と出会えたことも運命的な導きがあったからなのかもしれません。

 偶然が重なり日本そして弘前に来ることになり、りんごの知識もまったくなかった黄が、こんなにも長く、そして深くりんご産業に関わることになるなんて不思議に感じることもあるそうですが、中国に帰らず弘前に残ったことで様々な人とつながり、一緒に仕事をしたことがとても楽しいと感じ、りんごとの関わりをもてたことで充実した人生だと感じているといいます。「ここ弘前大学にやってきてから色んな所に調査に行かせてもらっていますが、大学人として調査したことを、青森のりんごに携わっている皆さんに伝えるという使命があると思っています。私たち大学人は行政的なパワーも金銭的なパワーもありませんが、「クラブ制」や輸出の重要性、その他感じたことを続けて調査し、皆さんに伝えることで、皆さんの頭の隅にでも残るようになって頂けるのではと思っています。私の研究は短期的には意味がないとしても、長い目でみたらそれが大事なことだということが分かっていただければ嬉しいと感じます」と語る黄は、誰よりも青森りんごの将来を考えているのかもしれません。
 初めてりんご産業の調査を行ってから18年。調査・研究もまだ終わりではなく、地域に合わせて実践していくのもこれからです。黄はこれからますます青森りんごの発展のため、この先も未来を切り開いていってくれることでしょう。

取材中の黄

2017年(平成29年)10月月~2018年(平成30年)1月執筆
2018年(平成30年)2月公開

プロフィール : 黄 孝春(こう こうしゅん)(HUANG Xiaochun)

1962年10月中華人民共和国湖北省で生まれる。1984年10月来日、京都大学で6年半学び理論経済学と経済史学の博士号を取得。1991年4月弘前大学の講師として赴任。2001年から海外のりんご産業の調査・研究を始め、現在までに6カ国以上の主なりんご産地と5カ国以上の主なりんご輸出市場についての調査を行ってきた。2007年弘前大学人文社会科学部教授に就任。今後青森りんごにクラブ制を導入するなど、実践的に地域に活かせるよう農業と食に関するプロジェクトに参加している。

主な著書に「りんごをアップルとは呼ばせない-津軽りんご人たちが語る日本農業の底力」、「グローバル化のリンゴ産業-世界と青森-」がある。(共に弘前大学出版会より出版)

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