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商人を天職とし揺るぎなき信念を持つ男がいる。
激動の時代を生き抜き、己の身一つで北の地へと渡った男は
幾つもの試練を乗り越え時代を築き上げた。
りんごを愛し愛された男の目は今もなお輝き続けている。

File#② 鍛 恒雄 Tsuneo Kitae <後編>

営業所の拡張移転

 闘病後、再スタートを切った鍛は、やる気に満ち溢れていました。退院後の1961年(昭和36年)に復帰した後は、冷蔵庫、選果場、資材倉庫を次々と建設し、商売の幅を大きく広げていきました。それと同時に、りんごについての知識を得るための勉強を積極的にしたといいます。
 商売の幅が広くなると、どうしても敷地が手狭になってきます。弘前市東和徳の鍛商店では、道路を挟んで向かい合わせの場所で営業していました。平賀駅前から移転した当時、移転をするにあたって相談した商売仲間の先輩によると、大体3,000坪あればいいとの事で弘前市東和徳に根を下ろしました。当時は敷地の広さは十分にあって商売も順調に推移していましたが、徐々に手狭になってくると、りんごの収穫期にはたくさんのりんごを買付けるため、倉庫とその向かい側にある倉庫の間にある道路にまでパレットを積んでりんご箱を置いていました。倉庫と倉庫の間の行き来も非常に多く、秋には当然のごとく苦情がありました。道路に置くのはりんごの収穫期だけの一時的なこととはいえ、通行の妨げになっていたのも事実でした。徐々にこのような状況になってきた1968年(昭和43年)頃から、移転を模索し始めます。すると、ちょうどこの時期に弘前市東和徳に地下道が作られることになり、鍛商店の土地が買収されることになりました。タイミングとしても非常に丁度良く、新たな場所を探すことになっていきます。

 新たな場所を探していた1970年(昭和45年)、これもまたタイミングとして非常に丁度良く、国道7号の弘前バイパスが開通に向け工事を着工することになります。この頃りんごの流通手段は、貨車ではなくトラックで輸送していたため、大きなバイパス沿いとなると商売にも好都合でした。土地も十分にあり、鍛はこの場所に土地を買うことにしました(現社屋の場所)。毎年少しずつ土地を購入していきましたが、道路工事が始まる頃に比べて、道路が開通する1975年(昭和50年)頃には土地の値段は2倍ほどになっていたといいます。
 そして弘前バイパスが開通した1975年(昭和50年)、現在の社屋と同じ場所に新社屋が完成し新たな商売がスタートしました。その後、倉庫や冷蔵庫も徐々に建設しては、移転も徐々に進めていくことになっていきます。

東和徳の鍛商店にて

冷蔵庫へのこだわり

 りんごを扱うにあたって冷蔵庫は欠かせません。鍛商店を始めた当時は雪室を利用した保存方法でした。まだ家庭用の冷蔵庫の普及もしていない時代、病気を患う前から鍛は冷蔵庫の重要性を見抜き、冷蔵庫について勉強していました。これもまた先見の明を持っていたと言うのでしょうか。まだ鍛商店創業前の弘前と神戸を行き来していた頃、神戸には玉葱などを貯蔵する営業冷蔵庫があり、よくりんごを入れさせてもらっては勉強もしたといいます。弘前の東和徳に冷蔵庫を建設したのも、りんご屋の中で1番早く、先駆者となりました。昭和30年代のりんご冷蔵庫は、天井にパイプがついていて、冷気を上から下ろす構造でした。しかし隅の方にまで冷気が行き届かず冷えムラがありました。そこで冷蔵庫業者と相談し、パイプを端の方にして風を送り、冷気が対流する方法にしたら隅の方もよく冷えるようになったのです。このような発想も、冷蔵庫の先駆者鍛ならではの発想です。先見の明を持ち、若いときから冷蔵庫設計業者興亜冷凍の技師と二人三脚で冷蔵庫について勉強してきた結果なのです。鍛はその後CA冷蔵庫導入に着手していくことになります。

広大な敷地の中、奥にまで続く冷蔵施設や倉庫など

『CA冷蔵庫に勝るものはない』
 鍛は、口癖のように繰り返します。
 その後も冷蔵庫に関しては、設計業者興亜冷凍の技師と共に勉強し、意見を出し合いながら知識を深めていきました。「この技師の方にめぐり会えたから今日があるようなものです」と語るほど、二人三脚で取り組んできたそうです。
 そんな中、青森県りんご共販協同組合(以下“共販”)の役員を務めていた1976年(昭和51年)頃、共販でCA冷蔵庫を導入することになりました。鍛にとって最も身近でCA冷蔵庫について勉強する機会がやってきたのです。普通冷蔵と違い空気の組成を人工的に変化させ、りんごの呼吸を抑えることで長く品質を維持させることができる冷蔵技術。管理方法や運営方法などを勉強しました。CA冷蔵庫は高気密でなくてはなりませんが、気密性を保つためにはどうしたらよいか、試行錯誤しながら技術を身につけていきました。そして1978年(昭和53年)、鍛商店でもりんご移出業者個人としては初めてCA冷蔵庫を建設しました。CA冷蔵庫を運営しながらもいかにしてりんごの鮮度を保つか、ということばかりを考えていました。酸素があるからりんごが成熟し、鮮度が落ちてしまいます。少しでも早くCA状態にすることで、りんごの鮮度を保つ事ができ、そのためには空気中の酸素をいち早く取り除く必要があります。そこで窒素発生器を使用し、窒素を吹き込んでみると、酸素の濃度が早く下がったのです。普通のやり方だと何日もかかり、その間にもりんごの鮮度は落ちてしまいます。この数日の差で鮮度の違いが生じるのです。また、「りんごの水分をなくさずに鮮度を保つ」、これが一番肝心なことだと言います。水分が抜けたりんごは、味や食感、質が劣ってしまいますので、水分をなくさないようにするには水分を補給すればいいと考えました。そこで加湿器を導入し、試してみました。冷蔵庫内の温度は0℃に保たれますが、しっかりした温度管理がないと冷蔵庫内の温度が0℃以下になる場合もあります。加湿器を運転させても0℃以下になると水が凍ってしまい、せっかくのりんごがダメになってしまうこともありました。
 鍛は常時対策を考えていました。そんな中、ふと寒冷地の川の水は凍らないことに気付きます。川の水は流れていて動いてるから凍らない、だったら水を動かせばいいのではないかという考えです。水は0℃になっても動きがあると凍りません。加湿器のタンクの水を攪拌させることにより、凍らずに四六時中加湿させることができるようになりました。さらにマイナスの温度にならないように、温度管理を徹底して行ったのです。これは、簡単なことのようで非常に難しいと言います。

 いかに早くCA状態にできるか、水分補給ができるか、この二つの点で鍛の冷蔵・貯蔵技術は他の設備よりも優れています。高額な設備費用がかかるのが難点ですが、今ではこの冷蔵技術による冷蔵設備があり、翌年の7月、8月までのりんごの販売期間の延長を可能にしたことで青森りんごの発展につながり、青森県全体にプラスになっているのだと鍛は胸を張ります。こうして日夜考え研究した結果、今では世界に誇るCA冷蔵技術を身につけました。

キタエアップル冷蔵施設

キタエアップル

 創業30周年を迎えた1980年(昭和55年)、それまで個人経営だった鍛商店を「キタエアップル株式会社」という社名に変更し、株式会社として経営していくことにしました。根っからの商売人気質の鍛は、「個人商店はもう流行らない、これからの時代は会社としてもっと商売を大きくしていこう」と考えたのです。その後も少しずつ弘前市東和徳からの移転を進めながら毎年のように土地を広げ、平成29年現在は総敷地面積117,700㎡(35,600坪)を有しています。その中にCA冷蔵庫<730,000箱(1箱20kg)収容>15,000㎡、普通冷蔵庫<310,000箱(1箱20kg)収容>6,000㎡、自動CA冷蔵庫<52,000箱(1箱20kg)収容>1,400㎡、選果場29,950㎡、資材倉庫6,900㎡、その他諸々を建設していきました。

一番広い資材倉庫の様子


選果場の様子

 その中でも、自動CA冷蔵庫という施設があります。『ラック式無人自動CA冷蔵庫』(通称“FA冷蔵”)です。その名の通り、自動の冷蔵庫です。CA冷蔵庫は、通常の大気状態よりも酸素濃度が低いため、人間が直接入ることができなくなります。そのため冷蔵庫内で作業するためには、CA状態を数日間開放する必要があります。要するにりんごを少量冷蔵庫から出すことで保存状態にロスが生じてしまうのです。この問題点を解決したのがこの『ラック式無人自動CA冷蔵庫』(通称“FA冷蔵”)なのです。FA冷蔵は希少品種などを少量扱うことができるという大きな利点があります。お客様から希少品種などの要望があった際には、CA冷蔵と同等の品質で提供できる、画期的な冷蔵庫です。このFA冷蔵は、冷蔵庫内にラックとクレーンを設置しコンピュータ制御することで、製品化のために冷蔵庫外に出す約1時間以外は、出荷まで常にCA状態を保つことができるといったもので、7月、8月の真夏の時期にも希少品種などが新鮮な状態で出荷できるようになり、品質管理の面でも最高の技術を持つことができました。
 このFA冷蔵は今でも県内にキタエアップルにしかなく、まさにキタエアップルの代名詞ともいうべき施設です。鍛は商売のために設備投資を惜しむことはせず、常にりんごの為に、常にお客様の為に、ということを考えてきました。それに伴い従業員も増えていき、いつしかりんご移出業界のトップとなっていました。

『ラック式無人自動CA冷蔵庫』(通称“FA冷蔵”)の見取り図など

 こうして品質管理に努めながら株式会社として経営を続けた結果、2015年(平成27年)に青森県りんご植栽140周年記念事業から表彰されました。これは永年にわたりりんご産業振興のために貢献したということで、功労者として表彰を受けたものです。鍛は「この表彰されたのが一番嬉しいね。りんごというのは生産者があってこそで、生産者のおかげでりんご屋が成り立ってるけど、みんなで団結してやって色々と努力したからここまで頑張ってやってこれた。青森のりんご産業に貢献したということで、表彰されたことは、この上なく嬉しかったですね」と感慨深げに語ってくれました。

青森県りんご植栽140周年記念事業からの表彰状

 鍛は現在も将来のりんご産業を考えています。りんご産業の中でも輸出が重要だと鍛はいいます。現在は最大の輸出先である台湾が主流ですが、その他の国にも目を向ける必要があると考えています。
 ある時、市場でお世話になった方に紹介されスリランカを訪問する機会がありました。スリランカはインドの南東にある島国で温かい観光地です。サファイアの産地でネクタイピンやネックレスなどのアクセサリーを生産しています。そのスリランカでりんごが売れないかと話してみたそうです。この時は、中国などからも入ってきていて値段などの面で折り合いがつかなかったそうですが、将来的には青森のりんごがもっと世界に羽ばたいていかなければならないと感じています。このスリランカのような未開の国に対しても、もっと目を向けなくてはならないと考えたのです。現状に甘んじず世界にも目を向け、青森のりんごは必ず世界に通用すると、鍛は考えているのです。

選果場の様子

人生 ~ピンチをチャンスに変え~

 鍛はいいます。
「人生には一生のうちに良いチャンスが3回ある。普通はね、2回とれば大成功、1回とれば成功やね。でも僕は3回のチャンスをものにしてるような気がしますね」と誇らしげに語ってくれました。確かにそう思います。世の中にはチャンスを1回もとらずに終わる人も多い中、鍛はチャンスをものにしてきました。鍛の場合はピンチをチャンスに変えてきたと言っても良いのかもしれません。電車との衝突事故による大ケガで戦場を回避できたこと、平賀町の大火で倉庫を焼失したときは火災保険により再建でき、それを機に弘前に進出できたこと、大病を患った際には運も味方し完治。この闘病の3年間はりんごの商売が不振で倒産するほどのダメージを負った業者もいる中、破格の融資を受けることができたこと。弘前市東和徳では手狭になってきた際、タイミングよく地下道建設による買収により、多額の保証金を受け取り現在の社屋や倉庫が建設できたこと。このように例を挙げるとキリがありません。
 また、鍛は黙ってチャンスを待っていたわけではなく、常に商売のことを考え勉強してきました。だからこそ、冷蔵技術を身につけ、「CA冷蔵に勝るものはない」と言い切るほど品質管理に努めました。また、「僕は完璧を期する性格でね、完璧に物事が進まないとダメなんですよ」ともいい、どうやって成功すればいいか、いい方向へ向かうためにはどうすればいいか、努力することを惜しまず、いつでも先を見据えて物事を考えた商売をしてきました。このことが、ピンチをもチャンスに変え、成功することができた要因なのではないでしょうか。

買参人としてセリに参加していた頃。7-80の買参人番号が鍛恒雄

 長年、鍛と仕事を共にしてきた入社35年の大瀬専務(66)が鍛について教えてくれました。
「会長(鍛恒雄)が若い頃から変わらないのはね、自分が思ったことは絶対に曲げない。貫き通すんですよ。これは普通の人間だと無理ですね。部下が無理だと言っても絶対に貫き通す。誰がなんと言おうとです。おかげで一緒にいる社員は大変でしたよ。それでも絶対的に責任は負うし、社員を大切にしてくれる。トップに立つ人とはこういう人なんだと感じますね」
「思えば企業のトップに立っている初代の社長というのは、こういう気質の人が多いような気もしますね。なにせ初代というのは会社を基礎から築き上げるわけですからね。馬力がないとできませんよ」と感慨深げに語ってくれました。
 また、倉庫建設中の面白いエピソードも教えてくれました。
「選果場の倉庫を建設している時のことですけど、倉庫には鉄骨の柱が中央にいくつか必ずあるんですよ。そのうちの1本が作業上の妨げになるから会長が撤去しろと言うんです。構造上無理だと言っても絶対に撤去しろと一点張りで、建設業者も困り果ててしまったんです」と話します。
 鍛はお金が莫大にかかっても良いと言い、時間もだいぶ費やしましたが、なんとか撤去したそうです。「もう今となっては笑い話ですけど、あの時は困りましたよ」と、大瀬専務は懐かしさに目を細めながら思い出を語ってくれました。

(左)会社親睦会にて親睦をはかる
(右)社員の結婚式で歌を披露

人生 ~95歳になってなお~

 鍛は普段は規則正しく8時半頃には朝食を済ませているそうです。
「朝は割と食欲があってね」と言います。健康の為に毎日朝と夕方には20分程散歩をし、健康器具を使って自転車こぎを10分程しています。
 午後は温泉に行き身体をいたわり、その後会社に行くことを楽しみとしています。
「やっぱり仕事をするのはいいね、楽しいですよ。あれこれ言いたいことを言ったりしてね。あまり言ったら怒られちゃうけど」と笑います。
 そして、毎日りんごを食べることを欠かさないそうです。「やっぱり商品ですしね。味はいつも確かめたい気持ちもある」と言い、いつでも仕事のことを考えています。
 健康に気遣っている鍛ですが、ここ数年の間にも体調を崩したことがありました。肺気腫によって3回も入院・手術をしたのです。12年程前に1度、2度目は6年前、そしてここ近年では、2016年(平成28年)春にも手術を受けたのです。94歳(2016年当時)という高齢で全身麻酔での手術は危険を伴いますが、鍛には手術に耐えられる体力もあり、無事に手術を受け回復しました。手術をした執刀医からは「私が全身麻酔で手術を行った患者の中で、鍛さんが最高齢です」と言われたそうです。鍛は「まだまだ僕に体力があるから全身麻酔で手術できたってことやね」と豪快に笑いました。普段から健康に留意して体力もあったからこそ手術を受けることができ、また会社に行けるまでに回復した鍛は、規則正しい生活を心がけて過ごしています。

(左)取材中の鍛
(右)キタエアップル敷地にて

 現在の代表取締役社長は鍛恒雄の長男、鍛賢次(きたえけんじ)氏です。現在は全権を賢次氏に託しており、その想いを「賢次はよくやってくれているね。本当に誇らしいですよ。これといって教えたことはないんやけどね、自分で考えている結果が出ていますよ。僕もね、自分は自分の道、自分で一番正しい道を進んどると思っているからね。たぶんそれが伝わっているのかもしれないね」と語ってくれました。
 また、3代目にあたる孫の鍛政樹(きたえまさき)氏も、キタエアップル取締役として社長のサポートをしています。政樹氏は学生の時から鍛の商談によくついて行き、そばで仕事を見て勉強をしていたと言います。強制したわけでもなく自ら行きたいということで、そういった政樹氏の姿に鍛は「頼もしく感じています。期待が持てるとも思っていますよ」と目を細めて想いを語ってくれました。
 鍛はいつも自分の想いと正直に向き合い、信念をもって商売してきました。その信念がいつしか2代目、3代目にも受け継がれていたのです。
 鍛は根っからの商売人気質で、先見の明に運の強さ、チャンスをものにする力を持ち合わせ、ここまで会社を大きくしてきました。そして強い信念があり受け継がれているからこそ、今もなおりんご移出業界のトップに居続けるのです。そしてまだまだ野望があるかの如く、商売人の力強い目は少しも衰えを感じませんでした。

親子3代(鍛政樹取締役(左)、鍛恒雄会長(中)、鍛賢次社長(右))

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2017年(平成29年)2~3月執筆
2017年(平成29年)4月公開

プロフィール : 鍛 恒雄(Tsuneo Kitae)

1922年(大正11年)3月に兵庫県淡路島で生まれる。終戦後から商売人として食料を卸すようになり、その後りんごを専門に買付けるようになる。1950年(昭和25年)、平賀駅前にりんご専門業者鍛商店として創業開始。移転等を繰り返しながら商売の幅を広げ、1980年(昭和55年)にキタエアップル株式会社と社名変更する。りんご移輸出業・りんご通信販売業を営み、冷蔵倉庫の技術向上、管理・運営に力を注ぐ。現在は代表取締役社長を長男に譲り、代表取締役会長として会社経営を担っている。

■各団体経歴(2017年(平成29年)現在)

弘前りんご商業協同組合
1989年(平成元年)7月~1994年(平成6年)7月理事長
2001年(平成13年)7月~2015年(平成27年)7月名誉理事長
1975年(昭和50年) 7月~現在理事
青森県りんご共販協同組合
1966年(昭和41年)10月~1975年(昭和50年)5月監事
1975年(昭和50年)5月~現在理事
青森県りんご商業協同組合連合会
1981年(昭和56年)8月~1989年(平成元年)8月理事
1989年(平成元年)8月~1992年(平成 4年)8月副会長
1992年(平成 4年)8月~1998年(平成10年)8月理事
1999年(平成11年)8月~現在理事
青森県りんご対策協議会
1987年(昭和62年)8月~1988年(昭和63年)6月理事
1988年(昭和63年)6月~1992年(平成 4年)8月専務理事
2004年(平成16年)8月~2007年(平成19年)8月理事
弘果りんご買参人共進会
1989年(平成元年)7月~2001年(平成13年)6月会長
2001年(平成13年)6月~2005年(平成17年)6月名誉会長
2005年(平成17年)6月~現在理事

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