石岡さん

異色の経歴を持った、若き女性りんご生産者がいる。
父亡き後のりんご園を継ぎ、
努力とともにやりがいを感じ、築き上げてきた。
就農して10年の彼女が目指すりんご作りとは。

File#⑤ 石岡 紫織 Shiori Ishioka

 青森県弘前市下湯口しもゆぐち。アップルロードからほど近いこの地区は、弘前市でも特にりんご栽培が盛んで、先祖代々の畑を受け継ぎ、ほとんどの農家がりんご専業農家という地区です。そんな地区で生まれ育ち、若くして畑を受け継ぎ園主となった女性がいます。元航空自衛官で、退職後パイロット資格を取得。りんご栽培とはかけ離れた経歴を持ちながら、突如りんご生産者となり、並々ならぬ努力の末、女性初の剪定士せんていしとして認定され、りんご栽培に情熱を注いでいます。そんな彼女は、これからのりんご産業を担うりんご生産者、石岡紫織(いしおか しおり)、36歳です。
 1982年10月29日、明治時代から続くりんご農家の長女として紫織しおりは生まれました。りんご畑を遊び場に、3歳下の妹とともに自然の中でのびのびと育ちました。周りもりんご農家ばかり、代々畑を継いでいく地区の中で、自分が後継ぎであると幼いながらも、うすうす感じていたそうです。中学生の時、弘前市の弁論大会でりんご農家を継ぐことを発表しましたが、なんとなく継ぐものだという軽い気持ちでの発表でした。その一方で農作業の手伝いはあまりしたことはなく、両親からも手伝うように言われたことはなかったそうです。高校に入り、空手部に入部した紫織しおりは部活動が忙しく、ますます畑の手伝いをする機会はなくなりました。高校時代の紫織しおりにとってここ弘前は、りんご畑しかない、他には何もない田舎だという思いが強く、弘前を出たいという気持ちの方が大きくなっていました。

紫織2歳

パイロットを目指して

 2000年4月、高校3年生になった紫織しおりは、卒業後は弘前を出ようと考え、県外の大学を希望していました。そんなある日、進路指導室で大学の検索をしていると、たまたまパイロットになるための学校を見つけました。飛行機好きの父親の影響で、一緒にゲームをしていたこともあり、もともと飛行機への興味を持っていた紫織しおりは、興味本位で資料を見ていました。そこへ進路指導の先生から「飛行機に乗りたいなら、学校だけでなく、航空自衛隊に行く道もある」と教えてもらったことで、現実的にパイロットという職業に関心を持ったそうです。また、身近に航空自衛隊に入隊した先輩もいたことから、入隊することに不安もなく、紫織しおりは航空自衛隊のパイロットを目指すことにしました。
 2001年4月、紫織しおりはパイロットを夢見て、航空自衛隊に入隊しました。航空自衛隊のパイロットになるためには、年に1回行われる試験に合格しなければなりません。それも1次~3次試験まであり、受験資格は18歳~20歳までの3回のみ。紫織しおりは、この難関をはじめての受験で3次試験(最終)まで進むことができ、3次試験(最終)では、実際に練習機に乗り操縦かんを握ったのです。残念ながら不合格となりましたが、この3次試験(最終)で、操縦かんを握り飛行機を操ったことがとても心に残り、パイロットになりたいという気持ちがますます大きくなりました。その後も、自衛官として国を守るという業務に真剣に取り組みながらも、航空自衛隊のパイロットを夢見て試験に挑みました。しかし結果は、残念ながら合格することはできず、パイロットへの道が閉ざされてしまいました。それでも飛行機に乗りたいという気持ちを捨てきれず、パイロットになるためにはどうすればよいかを色々と調べ、外国のパイロット養成学校へ行って免許を取るという道を見つけました。その費用を稼ぐために懸命に働いてお金を貯め、6年後の2007年に自衛隊を退職し、ニュージーランドのパイロット養成学校に入学しました。そこで紫織しおりは1年間の講習と飛行訓練を受け、見事、自家用操縦士の免許を取得することができました。
 自家用操縦士の次に、職業として操縦士の業務に就くことができる、事業用操縦士の免許を取得したいと思っていた紫織しおりですが、1年の間に急激な円安となり、当初1NZドル80円位だったのが1NZドル100円にまで上がりました。この影響で、燃料代も値上がりし、資金不足のため帰国を余儀なくされてしまいました。

 この1年間のニュージーランド滞在時には、スーパーなどで原地産のりんごを見かけることが多くありました。ニュージーランドは「クラブ制りんご」を運用しており、りんご生産量は41万t(日本77万t:2016年産)ながらも、いわゆるりんご先進国の一つです。しかし、ニュージーランド産りんごは日本産りんごより比較的小さいことから、当時は「これがりんごなのか」と、少し違和感があったそうです。また、一般的にニュージーランドでは、野菜をあまり食べない代わりに、りんごなどフルーツをよく食べる人が多いことや、簡単なお菓子や料理に利用して食べることもあるそうです。また、切り分けたり皮をむかずに丸かじりをする人が多いそうで、これにはとても驚いたそうです。「ニュージーランドではホームステイ先の家に常にりんごがあり、スーパーでも安く売られていたのでたくさん食べました。小さいので少し戸惑いましたが、食べてみると美味しかったし、小さいりんごを好む国もあることを初めて知りました。帰国してから日本でニュージーランド産のりんごを見かけた時は、再会した気持ちになりましたが、海外からもりんごが輸入されているということを、帰国してから知りました」と、当時はまだりんごのことをよく知らなかった紫織しおりですが、どうしてもりんごに関心を寄せてしまうあたりは、りんご農家に生まれた宿命なのでしょう。

(左)飛行訓練中(2007年撮影)
(右)訓練用飛行機の前で(2007年撮影)

りんご農家を継ぐ

 2008年6月、一時帰国し、東京で仕事先を見つけて、資金を貯めようと心機一転の紫織しおりでしたが、その矢先に父親が亡くなったとの知らせが入ったのです。突然の知らせに、ただただ慌ただしく弘前に帰り、悲しんでいる暇もなく葬儀を執り行いました。そんな中、葬儀後の法要中に急激な天候の変化により、ひょうが降ってきました。参列者はりんご農家の人ばかりで、口々にりんごに傷がつくことを心配する声が聞こえました。この時は、紫織しおりにはそれがどういうことか、まだ理解していませんでした。
 一通り法要を済ませ親戚が集まる中、父親のいないりんご畑をどうするのかという話になりました。祖母と母親も農作業をしていましたが、薬かけ(薬剤散布)や、剪定せんてい作業をしたことがなく、それらはすべて父親が作業していました。話し合いの中紫織しおりは、このまま誰もやる人がいなければ、代々伝わる畑を手放すことになってしまうのでは、という気持ちを抱き、とっさに「自分がやる」と言ってしまいます。「今まで何もやったことがないのに苦労するだけだ」と、その場にいた親戚の人たちが紫織しおりに言葉をかけました。母親からも「無理することないよ」と言われましたが、畑を継ぐと言ってしまった言葉を取り消すことはできずに、意地を張り、曲げませんでした。とはいうものの、今後のことやパイロットになる夢のことなど、自問自答を繰り返しました。
 お金を貯めてニュージーランドでパイロットを目指し、事業用操縦士の免許まであともう少しのところ。それでも「とにかく飛行機に乗りたいと思っていたので、自家用操縦士だけどとりあえずパイロットの免許を取ったこともあり、気持ちに一区切りつけることができたし、何より畑を守りたいという気持ちもあり、勢いとはいえ、畑を継ぐ覚悟はしたんです」と当時の気持ちを語ってくれました。

(左、右)就農して1年が経った頃(2009年撮影)

0からのスタート

 2008年6月、覚悟を決めて就農することになった紫織しおりですが、農作業の手伝いといえば収穫くらいで、他の作業はほとんどしたことがない、ほぼ未経験での園主となり、戸惑いの連続でした。大抵のりんご農家の後継ぎは、父親と一緒に作業しながら栽培のノウハウを学びますが、紫織しおりの場合は師匠となる父親がいない、まったくの新規就農者と同じ状況でした。そんな紫織しおりを地区の人たちはみんな応援してくれました。祖父の代から入っていた地区の共同防除組合の人たちは、薬かけ(薬剤散布)の仕方を丁寧に教えてくれました。この薬かけは、畑の状況を速やかに把握し、病害・害虫の有無の確認、心配される病害・害虫はないかを判断し、散布する薬剤を選択します。その上、スピードスプレーヤーの運転・操作という技術を要する作業です。また薬かけは、防護服とマスクを着用していても、その上から薬剤が少なからずかかってしまうため、安全だとは言われていても女性にはあまりよくないのではという考え方があり、女性が薬かけを行うという前例がありませんでした。周りの人たちの中にも、女性に薬かけをやらせるのは無理ではないかとの声もありましたが、この地区の共同防除組合は青森県内の中でも特に大きな組織で、紫織しおりが就農した2008年当時にはすでにキャビン付き(運転席が窓などで覆われている)のスピードスプレーヤーを導入していました。操作に関しても、飛行機に乗っていた経験もあるし、キャビン付きならいいのではないかと、紫織しおりもキャビン付きスピードスプレーヤーを操作させてもらえたそうです。いわば、今後前例のないことを次々とやってのける紫織しおりにとって、その第一歩となったのです。
 その他の人たちにも、草刈機など重機の乗り方を教えてもらったり、農機具店までもが親身になってくれ、農機具が壊れた時に連絡をすると、すぐに修理に来てくれたりと、様々な人が男手の仕事に関してもサポートしてくれて、周りの人たちが家族のように紫織しおりを心配し、協力してくれたのです。
 こうして、どうにか最初の収穫までこぎつけた紫織しおりでしたが、この年のりんごは法事の時に降ったひょうによる傷果ばかりで、ほとんど収入になりませんでした。紫織しおりはこの時初めて「あの法事の時にみんなが心配していたのは、こういうことだったんだ」と知ったのです。「こんな収入でりんご作っていけるのか。こんなに不安定な収入でよくみんなやってるな」と紫織しおりは大きなショックを受けました。しかし、畑を継いでしまった以上は逃げ出すわけにもいかず、「りんごを作らないと食べていけない」と奮起ふんきすることができたそうです。

(左)スピードスプレーヤーに給油する紫織
(右)下湯口共同防除組合農機具格納庫 キャビン付きスピードスプレーヤーがずらりと並ぶ

「りんごを作るしかない、頑張らないと」と思ってはいたものの、りんご作りの面白さもまだわからず、畑を継ぐと言ったことに、少し後悔を感じていました。それでも農作業を休むわけにはいかず、窮地きゅうちの中、特に高い技術を要する剪定せんてい作業が待ち構えていました。剪定せんていは、ただ単に枝を切ればよいというものではなく、翌秋の収穫を想定しての作業となるため、高い技術が必要なのです。どの枝を切ればよいかもわからない紫織しおりは、途方に暮れていましたが、またしても地区の人たちが手を差し伸べてくれました。遠縁にあたる林徳昭はやし のりあき氏(りんご大学「おいしいりんごの育て方」の園主)をはじめ、父親と親交のあった数名の生産者が、地区のみんなに声をかけ、30人もの人が集まり手伝ってくれたのです。この30人もの方々は、同じ下湯口しもゆぐち地区の皆さんで、中には紫織しおりの祖父から剪定せんていを教わった人もいて、紫織しおり一家を仲間だからといって集まってくれました。自分の畑の剪定せんていだけでも忙しい中で、無償とはいかないものの、それでも紫織しおりにとっては非常にありがたい救いの手でした。また林氏は、太い枝を切るために大きなチェーンソーを持ってきてくれたり、トラクターで枝を片付けてくれたりと、まるで娘のように心配し、応援してくれました。林氏は、「お父さんが亡くなって、紫織しおりは何も分からないまま(りんご栽培を)始めたから、気になっていた。同じ地区の仲間だからね」といい、林氏を筆頭に地区の人たちが、父親という師匠がいない代わりに、紫織しおりの師匠となり支えてくれました。
 摘花や摘果などは母親の作業を見て学び、休む暇もなく毎日畑に行っては頑張る紫織しおりですが、時には「私はなんでこんな事をしているんだろう」と泣きながら草刈りをしていたこともあり、気持ちに余裕もないまま毎日を過ごしていました。それでも、心が折れそうになりながらも「頑張るしかない」と、自分を奮い立たせていました。

 周りの協力に感謝しつつも、甘えてばかりもいられないと、りんごの作業等の勉強会にも積極的に参加するようになります。勉強会の参加者は、ほとんどが男性ばかりでしたが、もともと自衛隊でも男性が多い職場だったので、特におくすることなく参加していました。勉強会に行き始めた頃は、りんごに関する専門用語、それも津軽弁での専門用語がわからず、周りの人から「まず津軽弁から勉強した方がいいんじゃないか」と、からかわれたこともあったといいます(※例:「ずぎ」肥料、「ばや」徒長枝とちょうし、など)。紫織しおり自身は弘前市で生まれ育ち、津軽弁で会話もしているのですが、専門用語となると、また別の言葉のようで、こういうことも父親がいれば自然に覚えていくことが、紫織しおりにとってはちょっとしたハードルでした。それでも、そんなからかいに対し、持ち前の明るさで笑って切り返すことができる紫織しおりは、すぐに周りに溶け込んでいったのです。
 りんご栽培の作業系の勉強会の他、初心者向けの青森りんごの始まりからを教えるものなど、様々な勉強会に参加し、紫織しおりはりんごについての知識を深めていきました。
 そんな勉強会での面白いエピソードを教えてくれました。ある勉強会で、りんご産業の歴史についての資料をもらった紫織しおりは、その中に自分の畑の小屋に飾ってある写真と同じ写真が載っているのに気づきました。その写真の人物はりんごの神様と言われた外崎嘉七とのさき かしち(※袋かけ、ボルドー液散布などの病虫害対策、一段式剪定法いちだんしきせんていほうなど、栽培技術の改良に努めた)でしたが、「あれ、うちのご先祖様が写ってる。外崎嘉七とのさき かしち?りんごの神様?あの小屋の写真はうちのご先祖様じゃなかったんだ」と紫織しおりはそれまでずっと、小屋に飾ってある写真はご先祖様の写真だと思っていたのです。「あの時はびっくりしましたよ。祖父からも父からも聞いたことがなかったですし、自分もご先祖様の写真だと思い込んでいましたから。小屋に飾ってもらうなんて畑が好きだったご先祖様なんだろうなと思っていました。それだけりんごのことを何も知らなかったし、教えてもらっていなかったってことなんですよね」と笑いながら話してくれました。後に読んだ文献で、紫織しおり曽祖父そうそふ外崎嘉七とのさき かしちと仲が良く、外崎嘉七とのさき かしちからりんご栽培について教えてもらっていたということを知り、不思議な縁を感じたそうです。

     
(左)園地内にある資材倉庫兼、休憩所
(右)休憩所に飾られている外崎嘉七の写真
 

りんご作りのやりがいを見出し、努力の日々

 自分なりに勉強をし、地区の人たちにも協力してもらいながら、2009年9月には2年目の収穫を迎えることができました。この時紫織しおりは、地区の同世代の後継者とともに、弘前市内(さくら野百貨店や宮園団地内)で直売を行いました。前年が雹害ひょうがいであまりにも収入がなかったので、少しでもりんごを買ってもらえたらとの気持ちから、みんなが集まったものです。そこで試食販売をすると、「美味しい」といって買ってくれる人がたくさんいたのです。紫織しおりはこのとき、初めてりんご作りに対してやりがいを感じたといいます。自分が作ったりんごを、「美味しい」というたった一言で、やりがいを感じることができたのです。紫織しおりは、「みんなで直売して、自分が作ったものを食べてもらい『美味しい』と言ってもらえて、自分の仕事が評価されたと思いました。お金を払って買ってもらえるというやりがいを感じ、頑張ろうと思いました。それに同じ世代の人たちが一生懸命りんごを売っている姿をみて、りんごを売るのは楽しい、りんご作りはやりがいがあるなと思いました」と気持ちの変化があったことを話してくれました。
 また、東京の青山やお台場で行われたマルシェ(産直)にも参加した紫織しおりは、ここでもお客さんからの「美味しいね」という言葉をもらったそうで、「ダイレクトに感想を聞ける直売は、自分のモチベーションにもなるし、もっと美味しいりんごを作ろう、頑張ろうと思えるようになりました」と、消費者の生の声を聞く喜びを感じていました。
 地元の市場に出荷した際には、市場の担当者から、木箱の扱い方やりんごの詰め方を指導してもらったり、出荷時期の相談に乗ってもらったそうです。また「なかなかいい出来ですね。お父さんが亡くなって大変でしょうけど、よく頑張っていますね」と声をかけられ、地区の人たち以外の人にもりんご生産者として認めてもらえたと感じ、ますますやりがいを見出していました。

(左)弘前市内で行った直売の様子(2014年撮影)
(右)地区の同世代の人たちと 女性は紫織のみ(2015年撮影)
(左)2012年12月東京二子玉川で行われたマルシェ(産直)の様子
(右)2017年1月香港で開催された「農業女子フェアin香港」にて

 それからというもの、紫織しおりはりんご栽培に対して前向きになり、農作業もそれまで以上に懸命に取り組むようになりました。毎日畑に行っては農作業に汗を流し、美味しいりんごを作るための努力を惜しみませんでした。その紫織しおりの姿に地区の人たちも感銘を受け、これまで以上に協力し続けてくれました。また、もっと知識を深めたいと思い、2010年4月~2012年3月までの2年間、青森県りんご産業基幹青年養成事業に参加し、様々な勉強会や、他の地区の園地視察に行ったりと、勉強を重ねました。さらには2013年4月~2014年3月までの1年間、青森県りんご病害虫マスターの研修にも参加し、病害虫防除の勉強をしました。病害虫防除に関して、もっと薬剤のことを知りたいと思った紫織しおりは、毒物劇物取扱責任者の資格まで取得したのです。すべては美味しいりんごを作るために。
 こうして自身も勉強を重ねながらりんご栽培を続けた結果、2013年には出荷先団体の「サンつがる高品質出荷者表彰」を受賞しました。これは人が食べた感想だけでなく、糖度などを機械で測り、数値からも高品質であると認められるものです。この表彰を受けたことで、周りの人たちからも「よく頑張ったね」と喜んでもらえたそうで、就農して5年目、それまでの頑張りが実ったと感じ、自信にもつながった嬉しい出来事でした。

 紫織しおりがりんご作りにおいて最も努力したのは、剪定せんていだといいます。「はじめの2年は地区のみんなに手伝ってもらったけど、いつまでも手伝ってもらう訳にはいかないので、だいぶ勉強しました。地区の人たちにも教わりながら、剪定せんてい勉強会にも何度も行きました」と、積極的に剪定せんてい技術を磨きました。「最初の頃は切れないノコ(ノコギリ)を持って行って、先生に怒られた事もありますけどね」と笑いますが、失敗もいい思い出と笑い飛ばすほど、前向きに取り組み、一人前になるべく、人一倍努力をしたそうです。剪定せんてい勉強会でも女性参加者はいなかったそうですが、女性参加者がいないということには気にも留めず、美味しいりんご作りのため、技術向上のために努力を続けたのです。そして、2015年4月には、第7期青森県りんご剪定士せんていし養成事業に参加しました。この事業への参加は、環境ががらりと変わるもので、就農してから7年、だいぶ技術的にも向上してきた中、また基本からの勉強となります。これも、もっともっと知識を深めたいとの強い思いからの参加でした。2018年3月までの3年間、剪定せんていに関する実技と講習を受け、女性では青森県初となる、りんご剪定士せんていしとして認定されました。

(左)剪定勉強会の様子(2017年紫織撮影)
(右)青森県りんご剪定士認定証など

“いいりんご”作りを目指して

「これからもニーズに合った、“いいりんご”を作っていきたい」
 紫織しおりが言う“いいりんご”というのは、食べてくれた人から「美味しいね、また来年も食べたいね」と言われる美味しいりんごだといいます。直売することでダイレクトに「美味しい」という感想を聞けたことが何よりうれしいそうで、見た目より美味しいりんごが“いいりんご”だと考えています。
 その“いいりんご”を作るやり方は、作る人によって様々だといいます。「技術を覚えてきて他の人のやり方を見てみると、みんなやり方は違うけど“いいりんご”を作っています。例えば1+1は2だけど、4-2も答えは2。答えを2にする方法はいっぱいあるので、どれを選ぶかは自分自身だし、求めているのはみんな“いいりんご”なんだと思います。」
 純粋に“いいりんご”をずっと作っていきたい、そして日本での消費量を伸ばしたいと、紫織しおりはいいます。「いくら“いいりんご”を作っても買ってくれる人がいないとだめですよね。外国からもどんどん輸入されてきますので、やっぱり美味しいりんごを作って、青森のりんごは美味しいよっていうことを、消費者の皆さんにもっと教えていかないと買ってもらえないと思うんです。今はりんごの海外輸出が好調だから値段が上がっていますけど、日本の人にもっと食べてもらわないと、海外で何かあったら売れなくなりますからね」と国内市場に目を向けています。
 国内での消費量を増やすために、お菓子や料理に適した品種の栽培にも取り組んでいます。生食以外でお菓子や料理に利用するという食べ方は、以前パイロット免許取得のために滞在していた、ニュージーランドでの経験が心に残っているそうです。ニュージーランドでは生のまま丸かじりして食べるほかに、簡単なお菓子を作ったり、料理にも利用していたそうで、日本でも少なからずそういうニーズがあるので、それに応えていきたいといいます。「生食以外にもりんごが使われることで、少しでも消費を増やしていければいいですね。そういうニーズに応えた品種構成にすることで、今後の経営につなげていけたらと思っています」と、りんごを作ることを全く考えていなかったニュージーランド滞在時の経験が、今になって役立っていると話してくれました。

(左、右)2018年収穫前のサンふじ

下湯口地区の魅力

 紫織しおりが若い時は、ここ(下湯口しもゆぐち地区)は畑しかない、何もない田舎だと思っていて、それが嫌だと感じていましたが、今はこの地区の良さがわかるようになりました。この下湯口しもゆぐちという地区は弘前市でも特にりんご専業農家が多く、そして皆プライドを持ってりんご栽培に取り組んでいます。そんな下湯口しもゆぐち地区には「下湯口しもゆぐちふくろうの会」という、一見りんごとは無関係とも思える会があります。この会は、りんご栽培において、外敵であるネズミ駆除のために、殺鼠剤さっそざいだけでなく、ネズミの天敵であるふくろうの巣箱を設置して、ふくろうにネズミを捕獲してもらおうという活動をしています。ふくろうがネズミを捕ってくれれば、その分の殺鼠剤費さっそざいひも少なくて済みます。紫織しおりの畑にも数年前には古い樹にふくろうが巣を作っていたそうですが、現在は「下湯口しもゆぐちふくろうの会」のみんなで作った巣箱を設置しています。紫織しおりの巣箱にはまだ営巣えいそうしていませんが、他の畑には営巣えいそうしており、地区全体でふくろうを育てているそうです。そういう活動も、美味しいりんごを作るためという意識の高さゆえのことで、地区の人たちが一丸となっているのがわかります。
 そんな下湯口しもゆぐちで生まれ育った紫織しおりにとって、下湯口しもゆぐちの人たちは家族のような存在です。紫織しおりが畑を継いでりんご作りを始めた時も、隣近所だけではなく地区全体の人が気にかけてくれ、技術を教わり、支えてもらいました。地区のみんなのおかげで、紫織しおりはりんご栽培のノウハウや面白さを覚え、これからも一生りんごを作っていくという気持ちにもなったのです。「下湯口しもゆぐちのみんなが心配し協力してくれました。この地区だったからここまでやってこれたと思います」と下湯口しもゆぐち地区のありがたさを強く感じているそうです。

古い樹に営巣していたふくろう(2010年撮影)

 地区の人たちの支えにより、りんご栽培に対する紫織しおりの意識も前向きになり、プライドを持ってりんご作りに取り組めるようになった紫織しおりですが、まだまだ若手生産者の一人です。そんな若手だからこそ、様々なことにチャレンジすることができるのです。勉強会などにも相変わらず参加し、下湯口しもゆぐち地区以外のりんご生産者と交流を持つことも多く、情報交換は欠かしません。「勉強会とかで他の地域の生産者さんの園地などを見に行くこともあるのですが、りんごだけでなく他の果樹や野菜も作っている地域も多いんです。ここ(下湯口しもゆぐち)はりんご専業農家が多くて、いかに美味しいりんごを作るか、という意識の中でりんごを作っている人たちばかりで、すごく刺激にもなるし、農業という仕事をするにはいい環境が整っていると思います」と、他の地区と比較をした上で、感じているようです。「それでも他の地区にも良い部分があるので、今でも変わらず、地区の中だけでなく、外を知ることでもまた刺激を受けます」と、日々りんご栽培と向き合っています。こうした交流を通して若手生産者同士が切磋琢磨せっさたくまし、これからも“いいりんご”を作り続けていくことは、青森のりんご産業にとって明るい未来を感じます。

10年経って思うこと

 雹害ひょうがいという最悪のスタートからはじまり、りんご作りをがんばらなければ食べていけないと、必死にりんごを作り、あっという間に10年が経ちました。2018年10月の今、紫織しおりはこれからのことをどのように考えているのでしょうか。
「枝切り(剪定せんてい)のやり方、技術は覚えてきて、こういう風に切ればこうなる、ということはわかってきても、りんごの性質とかはわかってないことが多いですね。植物の性質的な部分をもっと勉強してわかるようになれば、りんご作りのことがもっとわかりやすくなるのかな、と最近思っています」と、色々と覚えてきたからこそ感じる疑問も生まれ、りんご栽培は奥深いといいます。そして今なお貪欲どんよくな姿勢で、知識を得ようとしています。
 その反面、「10年一区切りでようやく力の抜きどころもわかってきたので、もうちょっとメリハリつけて休めるときは休むようにしたいと思っています」と、気持ちの中に余裕が生まれてきたそうです。「最初は雹害ひょうがいからだったので、どうしてこんなに安いのかと思って、なんとか高く売ろうと考えていました。でも今は生活できるだけの収入があればいいと思っています。農家は一生できる仕事だと言われていますが、やっぱり体が資本なので病気や怪我で働けなくなることもあります。高齢になって体が思うように利かなくなってきた人も周りにいるので、そういうのを目の当たりにすると、死ぬまで仕事ができるといっても限界があると思います。だから長く続けるために楽をすることも大事だと思っています」と語ってくれました。
 楽をするというのは手を抜くことではなく、機械で楽をする、わい化栽培にして楽をするなど、自分が歳をとってからも長く続けていくには、どうすればよいかを考えているそうです。「3年前に祖母が亡くなり今は母と2人なので、これだけあればやっていけるな、生活できるなっていうのがだんだんとわかってきて、生活に合わせて収入の目標を立てた方が楽だと考えるようになりました」というように、気持ちに余裕が出てきたからこその考え方のようです。また、将来を見据えて「もしも将来家族が増え、その家族が人手として働けるとしたら、その時はまた畑の構成を変えるなどして、家族全体のライフスタイルに合わせた収入を目標にしていきたい」とも話してくれました。

 母親の留美子さんは、そんな紫織しおりのことを頼りにしているといいます。「園主ですので、従わないとクビになります」と笑って冗談を言いつつも、「紫織しおりが畑をやると言ったときは、正直安心しました。畑のことだけじゃなくて、家の事とかもあるし、そばにいてくれるということがなによりです」と、紫織しおりには無理しなくてもいいと言いながらも、内心はほっとしていたそうです。「今までお父さんがやってた仕事、剪定せんていとか機械ものは男の人がやるもんだと思ってましたが、紫織しおりが全部やってくれて、すごく感謝してます。農家ってまだ男社会なところがありますけど、地区のおじさんたちの中でも物怖ものおじしないで入っていって、うまくやってくれてね、本当に頼りになります」と話してくれました。時々親子げんかをすることもあるそうですが、普段は仲良く、これからどういうふうにりんごを作っていくかなど、作業中におしゃべりをしながら話し合っているそうです。

(左)草刈り作業
(右)摘果作業

女性りんご生産者として

 男性と同じように農作業をしてきた紫織しおりですが、女性だからという理由だけで、「枝切り(剪定せんてい)や薬かけ(薬剤散布)は誰かにお願いしているんでしょう」と言われることもあったそうです。「枝切りと薬かけはいまだに男仕事だと思っている人もいるんですよね。女性が園主としてりんご栽培をする時にネックになるのが、枝切りと薬かけだと思うんです。でも、女性でもやれますし、私だけではなくしっかりやっている人もいますよ。ただ、もう少し女性向けの勉強会が増えるといいなと思いますね。女性でも勉強したい人はたくさんいるのに、男性ばかりだと出ていきにくい人もいるので」と話します。近年では女性向けの勉強会も増えてきましたが、紫織しおりが就農した当初は、女性主体の勉強会があまりなかったのです。そういった中で紫織しおりが青森県で女性初のりんご剪定士せんていしに認定されたことは、後に続く女性生産者の励みにもなるのではないでしょうか。
 大変な作業が多いりんご作りではあるものの、それ以上にやりがいを感じることが多いのも、りんご作りの魅力といいます。「りんご農家はりんごを作るのが仕事ですが、やろうと思えば、販売、流通、プロモーションまで、全部を自分でマネジメントすることもできるんです。アイデア次第では色々な可能性があるのが面白いところだと思います。そして何より、お客さんからの『美味しい』の一言は何ものにも代えがたい、大きなやりがいを感じる部分で、魅力でもあります。もっと美味しいりんごを作って、たくさんの人に食べてもらいたいですね。女性生産者はまだ少ないかもしれないけど、枝切りも薬かけも、女性でもやれますので、男女関係なくおすすめの職業です」と、りんご生産者としてのプライドを持った、熱い言葉で語ってくれました。

 地区の人たちに支えられながら10年が経ち、今では下湯口しもゆぐち地区の頼れる存在として頑張っています。元航空自衛官という異色の経歴の持ち主で、人生の大きな決断をした彼女は、これからの青森りんご産業をリードしてくれることでしょう。若手生産者・女性生産者を牽引けんいんし、よい手本となり、“いいりんご”を作り続けてくれると感じます。これからの青森のりんご産業が明るい未来となる一つの星として。

 
(左)葉とり作業
(右)取材中の紫織

2018年(平成30年)5月~11月執筆
2018年(平成30年)12月公開

プロフィール : 石岡 紫織(Shiori Ishioka)

1982年10月弘前市下湯口のりんご専業農家の長女として生まれる。2001年~2007年まで航空自衛隊で勤務。2008年3月にニュージーランドでパイロット免許(自家用操縦士)取得。2008年6月父親が亡くなったことで、家業であるりんご畑を継ぎりんご栽培を始める。周りの協力を得ながら栽培を続け、直売も行うなど精力的にりんご栽培に取り組んでいる。2018年3月青森県で女性初のりんご剪定士に認定される。お婿さん募集中。

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