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音楽ライター・オラシオの
「りんごと音楽」
~ りんごにまつわるエトセトラ ~

vol.34 謙遜なんて許されない

芸術と農業は類似点が多いと考えています。本連載でも何度かそのような趣旨のことを書いてきました。挙げてみるなら、いいものを作るのには緻密な計算が必要なわりにちっとも思い通りにならないところとか、特にそうでしょうか。手間がむちゃくちゃかかるくせに、天候や偶然に左右される部分も多い。アートでも農業でも、関わる誰もがいいものを作ることができればみんなしあわせなのに、決してそんなことにはなりませんよね。

いいものを作るためには作り手の努力だけでなく、いろんなことがカチッとはまらないとダメだからかもしれません。その昔、俳優の勝新太郎が「偶然完全」という考え方を提唱していました。あらかじめ完璧に計算していたものを完璧に再現してもそれは完璧な作品ではなく偶然が働く中にこそ完全なものがあるんだ、というような感じでしょうか。カツシンと偶然完全をめぐるエピソードはいろいろあるのですが、小堺一機が語っているものは特に有名でしょうか。

小堺さんはカツシンが主催する俳優養成スクール「勝アカデミー」の第一期生で、ある日学長のカツシン自ら彼や同期生をお寿司屋さんに連れて行ったのだそうです。カツシンのなじみのお店で、大将とも仲が良い様子。恐縮する小堺さんたちを尻目に、出される寿司を大喜びで「うまいうまい」と言いながら平らげていくカツシン。ところがいきなりブーッと口の中のものを吐き出し「なんだこれは!」と怒鳴ります。大将も小堺さんたちも驚愕と恐怖でフリーズし、場の空気が凍りつきました。そこでカツシン、破顔一笑して小堺さんたちに「いいか、この時の顔がほんとうに驚いた表情なんだ」と言ったとさ。

きっと勝新太郎は計算だけで作り出すものを「こざかしい」と感じていて、今で言ういわゆる「素の姿」が好きなんでしょうね。そうしたモットーのもとに作品作りや演技をする彼に周囲は振り回されっぱなしだったようです。まあ、上のエピソードを読むだけで大変そうですよね(笑)。でも、農業を含めたものづくりに多かれ少なかれ偶然の要素が絡んでくるというのは真理だと思います。

2018年に発表された新品種「紅はつみ」

そういう根本的な類似点があるにもかかわらず、アートやクリエイティヴワークと農業では、求められる作り手の態度には大きな違いがあるように感じています。「求められる態度」とは何でしょうか? 最近の価値観にもとづいて表現すると「炎上しない」と言い換えるといちばん近いかもしれません。どういうことでしょうか。

この連載でも以前触れたことがあると思うのですが、僕は「農家の人の自画自賛って、なんでこんなにすがすがしいんだろう」といつも感じています。農家の人は、自分が育てた作物を屈託なく「うまい!」って言いますよね。農家の人に限らず、漁業など第一次産業に関わる人たちが自分の仕事で収穫したものを「ほんとにうまい」と言う姿を見て、怒ったり不快になったりする人はいないでしょう。

ではクリエイティブワーカーはどうでしょうか? 画家が「(俺の描いたこの絵)、むちゃくちゃすごいだろ」と言っていたら? インタビューで陶芸家が新作について「最高の作品ができた」と答えているのを読んだら? 受け取り方は第一次産業の人の時とはかなり違うのではないかと予想できます。好意的に受け取る人とそうでない人とは半々くらい、という感じではないでしょうか。そして「なんか傲慢」とかなんとかで、SNS上で炎上したりするのです。

2016年に発表された新品種「メルシー」

正直に言うと僕自身、アーティストやクリエイターの自画自賛を快く思えない人間です。以前音楽評論家業界の大家が雑誌上の記事で、自著のことを「世界中に多大な影響を与え」と書いていて鼻白んでしまいました。「自分で言うのか」と思っちゃったんですね。似たようなことはけっこうあります。しかし、農業と同じくすごい手間をかけて丹念に作ったはずの作品を自画自賛してるだけなのに、どうしてこんなに印象が違うのでしょうか。

その理由は、評価の中に占める「好き嫌い」の割合の違いにあると思っています。ものづくりに対する評価には大きく分けて2つの要素があります。1つは「いいもの・よくないもの」という評価のしかた。もう1つは「好き・嫌い」です。芸術の場合、受け手の評価の中で好きか嫌いかという判断の比重のほうが重くなることがしばしばあるのです。

たとえば音楽の世界だと「駄作なんだけど、なぜか愛聴している」とか「テクはすごいんだけど、なんか好きになれない」とか、よくありますよね。ほとんどのリスナーにとって、いいもの(完成度が高いとか芸術性がすばらしいとか)かどうかより、聴いて気分が良くなるかどうか、つまり好きか嫌いかのほうが大事な評価軸なのだと思います。そしてなぜか、質が高くなくても好みなんてことがありえてしまう。

イギリスのプログレバンドYES過渡期のアルバムDramaから。なんとリードヴォーカルとキーボードが抜けてしまい別メンバーで制作しています。完成度は高くないとされているものの隠れファンが多い不思議な作品

ところが農作物はどうでしょうか。品種や産地によって味が違うのはもちろんなのですが、そうした違いに対する好みの前に必ず「おいしいかおいしくないか」の分岐点があります。そして、おいしくないものは評価の対象にすらならない。ただ「まずかった」と忘れ去られるのです。「おいしいけど(あの品種とくらべて)あまり好きじゃないかも」はあり得ても「まずいけど好き」はほぼない。まずいものは、ほとんどの人が嫌いに決まっているんです。

「おいしくて当たり前」の土俵で勝負しているからこそ、自分ちの作物に対する「うまい」という自画自賛がすがすがしくストレートに響くのでしょう。第一、「いやー、うちのなんてまだまだっすよ」って謙遜している農家さんの農作物なんてあまり食べたくないですよね。農業の世界は、謙遜なんて許されないのです。

長い間、ビッグ・マウスは恥ずかしいなと思って生きてきました。自分の作品に自信があることと大口を叩くのは別の話だと考えていたし、なんか幼稚だよなと感じていました。でも最近はだんだん考えが変わりつつあります。ほんとうに一生懸命作っているならば、農家の人と同じように自信を持って「いいものを作りました」と言い切っていいのでは。むしろ謙遜するほうが恥ずかしいのでは。青森に引っ越して来て、こういう連載も持たせてもらって農業というものが身近になってきたからこその心境の変化だと思います。

いつの日か自作を躊躇なく「うまい」と言い切ってしまえるようになりたい。農家さんが自信を持って卸したスーパーのリンゴを食べながら、今日も勇気をもらうのでした。でもこっそりお教えします。僕も含め、公の場ではどんなに謙遜しているクリエイターも、家で自分の作品を見たり読んだりする時は「うわー、天才やな」と自画自賛の嵐なんです(笑)。きっとそういう気持ちは、ものづくりの原点なのでしょう。

2020/12/10

Profile

オラシオ

ポーランドジャズをこよなく愛する大阪出身の音楽ライター。現在は青森市在住。

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